こんにちは、よーこりんです。

今回は初めての投稿なので、わたしの自己紹介と、なぜホヌアで活動を始めたのかをご紹介したいと思います。
少し長くなりますが、最後までお付き合いいただけるとうれしいです。

とにかく生き辛かった子供時代

人に思ってることが言えない

物心ついたころから、人見知りが激しくいつも親の後ろに隠れていたような子どもでした。
すぐ下の妹はダウン症で生まれ、一番下の妹は天真爛漫でいつもニコニコしてみんなから可愛がられていました。
妹たちはそれぞれ違う形ですが、親の注目をいつも集めていました。
それに比べてわたしは・・・


「お姉ちゃんだから」


なんでも一人で出来るようになり、学校で辛いことがあっても親には言えずずっと胸に押さえ込んでいました。
自分の意見を言えない、本当に内氣な子どもで、授業中も先生に当てられたくなくてずっと息をひそめていました。

その反面、習っていたピアノの発表会ではあまり緊張せず演奏できたりと、表現することや発表することには抵抗がありませんでした。

父に認めてもらいたい

厳しいことをあまり言うこともなかったですが、わたしたち子どもが何か言うと、速攻で批判してくるような父でした(存命です)。
算数の宿題をよく見てもらっていたのですが、答えが合った時に「そうそうそう!」と言ってもらえるのがうれしかったように思います。
算数が一番好きだったこともありましたが、そのためもあって頑張って勉強していました。

お金で苦労もしてませんが、子どもを甘やかすということもなかったので
短大時代に挑戦したかったアメリカ留学も反対され、新婚旅行で行きたかったジャマイカ・フロリダも反対され、
父母が知らない世界には飛び込ませてもらえず、やりたいことは応援してもらえない保守的な環境でした。

うまくいかない恋愛

思春期に入り、男女問わず友達はいっぱいできるけど、なぜか恋愛となると、うまくいかない。
せっかく彼氏ができても、うまくいかず恋愛が続かない。
わたしはそれが、自分の見た目のせいだと思い込んでいました。
「あの子は可愛いからな〜
わたしは可愛くないからしゃーない」
だけど今ならわかりますが、それはすねてただけだし、シンプルに性格が悪かったです。笑

結婚したら幸せになれる

いよいよ結婚

そんなわたしも細々と恋愛を重ね、現在のダンナさんと結婚するところまでたどり着きます。
「これでやっと幸せになれる!」
その時のわたしは、そう信じていました。

しかし結婚当初からケンカばかりで、「なんで結婚してしまったんやろう?!」ってことばかり考える日々でした。
結婚しても、全然幸せじゃない。。
うちはお婿取りということもあり、親にも言えず辛い日々でした。

ダンナさんの転勤

上のむすめが一歳になる前、ダンナさんの広島転勤が決まりました。
その数ヶ月後に、わたしは渋々当時在籍していた会社を退職することに。
ここから、広島で2年、静岡で3年の魔の核家族生活が始まります。。

地元を離れてワンオペ子育て

誰も知ってる人がいない

今でも思い出すと涙が出そうになる反面、特に広島時代に起こった出来事は完全に覚えていません。
「あんなことあったよな」って家族に言われても、記憶にない。
全く知らない土地で、親も友達も、知ってる人が一人もいない環境で子育てする辛さ。寂しさ。不安。
その当時はそんな感覚はなかったんですが、夕方になると子どもを抱いて泣いていたのを覚えています。
完全に育児ノイローゼでした。
ダンナさんはダンナさんで、知らない土地で仕事をして、それはそれで辛い想いをたくさんしていたのだと思われます。
だから到底、子育てが辛い、大阪に帰りたいなんて言えなかったなぁ。
二人とも若かったし、お互いを思いやる氣持ちも薄くて、それぞれバラバラで頑張っていた感じ。。
とてもとても孤独でした。

キッチンに隠していた2万円

広島に住んでいた当時、キッチンには常に2万円を隠していました。
ケンカしたら、大阪へ帰れる新幹線代の片道分。
結局それを使うことはなかったですが、あとあとそれが影響します。。

住めば都

2年間住んだ広島を離れいざ静岡へ向かうとき、公園で知り合ったママ友や同じアパートのお知り合いと離れることが辛かった。
静岡なんて行ったこともないし、どんなところか分からなくて不安で、当時やり始めたインターネットで検索をよくしていました。
せっかく慣れて楽しくなってきたのに、また知らない土地へ行くのか。。

そこからイヤイヤ(笑)静岡へ向かうのですが、ここでまた3年。
上のむすめが幼稚園に入ったこともあり、わたしにも友達と言える存在が出来ました。


海が近く、ボディボードを始めたのもこの土地。
新婚旅行でたった一回やったことがあるボディボードを、せっかくだからまたやりたい。
当時流行っていたインターネットの掲示板で友達を見つけて、色々教えてもらいました。
その人に静波のサーフショップを紹介してもらって、ボディボードのスクールも一回受けました。
だから、関西人ですが「わたしのホームポイントは静波です!」と言っています。
波も人も最高でご飯も美味しい静岡が大好きになり、わたしたち夫婦はいずれこの土地へ戻ってきたいとさえ考えるぐらいになっていました。
今思えば、自然いっぱいの環境で子育てできたこと自体は、むすめらが素直に育ったことを見ると
とても良かったと思っています。

地元を離れた5年を経て

ようやく地元大阪へ

上のむすめ年長さん、下のむすめ年少さんの春、わたしたち家族は5年ぶりに大阪へ戻ってきました。
実家はまだ平屋のままだったので、わたしたちは近くのアパートへ住むことに。
歩いたらスープは冷めちゃうけど笑、保育所帰りに実家へ寄ったり、ダンナさんが出張で留守の時は遊びに行ったり、
わたしが友達と遊びに行く時はむすめらを預かってもらったりと、今までの借りを返すように実家に甘えまくりました。笑

わたしの中の何かが変わり始める

今までは地元を離れていた。
ダンナさんに頼らないと生きていけないと肌で感じていたから、たいがいの我慢もできた。
それまでなんとなく我慢できていたことが、このころから少しずつわたしの中から溢れ出し始めます。
それは言葉では説明するのが難しい。
「蓋をしてた臭いものが、隠しきれなくなって臭い出した」という感じ。。

夫婦の崩壊

もう一緒にいられない

きっかけは些細なことでしたが、それまで積み重ねてきた違和感はわたしの中でパンパンに膨らんでいました。
ダンナさんを近所のカフェに呼び出し、話をしました。

「離婚を前提に別居したい」

ダンナさんはびっくりして涙を流していましたが、もうわたしにはそれに同情する余裕がひとかけらも残っていませんでした。
ちょうどその頃、夜あまり眠れない・訳もなく泣けてくる・自分の言動に不安があるなどで、精神科の診断を受けると「鬱症状」でした。
そこから数年、飲み薬を服用していました。

地獄のような家庭

離婚したいと申し出てからは、家の中が地獄のようでした。
もう終わってると思ってるわたしと、まだ別れたくないと思ってるダンナさん。
わたしがガマンすれば解決すると思ってる両親。

この家に、わたしの味方はいないな。

「むすめたちを連れて、この家出るわ」
行くあてもなく、収入もアルバイトだったのによく言うたな、と自分でも思います。笑
だけど、それより何より一刻も早くここから逃げたかった。
これ以上ガマンするのは、死ぬより辛いと肌で感じていた。

神の采配

その言葉にはさすがに両親も驚き、ようやくわたしの味方になってくれることになり
ダンナさんも渋々アパートを探そうと言う氣になったそのとき

ダンナさんに会社から転勤の話がきます。

もうこれは神の采配としか言いようがない。
わたしたち夫婦は、子どもたちのこともあり
とりあえず籍はそのままに、離婚前提の別居を強制的に実行することになりました。

別居期間中の変化

約2年間、わたしたちは離れて住むことになりました。
その間行ったり来たりもありつつ、ちょうど良い冷却期間を過ごすことができました。
わたしも変わったし、ダンナさんも変わった。
それまではわたしは全部相手のせいにしていたけれども、いや自分もこういうあかんところもあったかな、と考える時間がたくさんありました。
それは多分ダンナさんのほうも同じだったかと。

あの期間が無ければ、わたしたち夫婦はあのまま別れていたと思います。

単身赴任が終わり

時間が解決することって本当にあって、わたしたちは離婚を回避し、また一緒に暮らすことになりました。
とはいえ、別々の部屋にするなど物理的、精神的にもまだまだ距離はありました。

わたしのままでいてもいい場所

ハワイの叡智ロミロミとの出会い

ここもあまり記憶にないのですが、何をどうやって検索したのか覚えてないのに
”カフナプリンシパル/ロミロミ”が、ある日インターネットの画面に出てきたんです。
スクールの文章を読むわたしには何か突き動かされるものがあり、体験入学することをそのとき秒で決めます。

知っていたことを思い出すプロセス

それまでは、生きていてもなんとなく毎日をやり過ごしていた日々でした。
自分が幸せではないのは、周りのせいだと思って生きてきました。
職場、ダンナさん、両親。
それが、ロミロミと出会い、カフナプリンシプル(ハワイの叡智・宇宙の法則)を学ぶうち、自分の中で何かが弾けるのが分かりました。
それまでとても生きづらかった。
周りに合わせて生きることが出来なかった。
結婚生活では、しんどいことだらけだった。
その答えというかヒントが、そこにはありました。

わたしはわたしのままでいてもいい。

そんな場所がロミロミスクールにはありました。
そこからは、猛スピードで自分が変化していく現実に着いていくことに必死でした。
ロミロミを学び先生から修了証をいただくと、わたしは自分のサロンをオープンすると決めました。

*現在、ホヌアではロミロミのサービスを終了しています。
ご興味あるかたには、オススメのサロンをご紹介しています。
なお、わたしがロミロミを学んだ東大阪のナナ子先生のブログから、カフナプリンシプルの説明ページをご紹介しておきますので、ご覧ください。

サロンオープンに向けて

ホヌアの誕生

サロンオープンからさかのぼり、2019年の春。
先生から修了証をいただいたわたしは、家族や友達のために自宅のリビングにマッサージテーブルを置いてロミロミを始めました。
テレビとかソファが置いてあるめちゃめちゃ無機質な現実的な空間(笑)で、ホヌアの第一歩がスタートしました。

場所問題

さて、サロンを始めるのはいいけど、家賃発生するってちょっとしんどそう。
かと言って、リビングでやるのもどうかと思う。

そうだ、離れの物置はどうかな?
あそこはうちの敷地内だけど、玄関が別にあるしいい感じなのでは?
だがしかし、物がいっぱい押し込まれていて築50年以上の古い木造。
土壁やし、畳もそのまま多分使えない。
さてどうするか?

ま、難しいことはさておき笑
ひとまずわたしは一人で、置いてあるぎゅうぎゅうの荷物を片付け始めることにしました。
最初は一人で始めた片付けですが、その姿を見てダンナさんが、両親が次第に手伝ってくれるようになりました。

偶然は必然

ところで、うちのダンナさんはバイク好きなんです。
突然話が変わったみたいですが、変わってないのでご安心を。笑
先ほどお話したようにうちは婿養子さんなので、わたしの実家にわたしの両親と同居しています。
なので、当然ですがわたしが生まれ育った場所に、ダンナさんも住んでいます。


うちのダンナさんは、家の前でいつもバイクをいじっていました。
そこをわたしの同級生が見かけたことから、ツーリングチームに誘ってくれました。
それまで地元の子ども会の役員もしていたわたしたち夫婦は、なんとなく地元の人たちにも顔を知られていたのかもしれません。
*先述してるようにわたしは人見知りなので、元々地元には友達がいません。

そのチームの中に、わたしの同級生で建築業を営んでる人がいました。
一緒に離れを片付けていたある日、ダンナさんはわたしにこう言いました。

「〇〇ちゃんにリフォーム頼んでみよっか」

それまで、自分で片付けて、自分で壁塗って、自分でなんとかしようとしていたリフォーム(資金繰り全くあてなし笑)
でしたが、その瞬間から

「あーそうか。
一人で抱えなくてもいいんだ。
誰かに助けてもらってもいいのか。」と
肩の荷が降りたのを覚えています。
この頃にはずいぶんと、夫婦関係も修復してきていました。

その時の同級生にも、何よりダンナさんにもとっても感謝しています。
ホヌアが生まれたのはこの時の度重なる偶然と言おうか、必然のおかげ。
そして、ホヌアの場所を残してくれた祖父母と、守ってくれていた父母にも、めちゃめちゃ感謝しています。

ホヌアが目指す世界

ホヌアオープンは2019年の11月。
そこからすぐにコロナ騒動が始まり、ロミロミから始めたホヌアもアクセスバーズや整体、
起業講座やマルシェ主催、コロナ禍にはオンラインセッションや講座開催など
その時その時でわたしがやりたいことを自由にやらせてもらってきました。
その中で、たくさんのお客様との出会い、仲間との出会い、恩師との出会いがありました。
全ての出会いには感謝しかありません。
そして応援してくれた、今も応援し続けてくれているダンナさんと家族にも。
本当にありがとうございます。

で、オープンからずっとわたしの心にある、わたしがホヌアと一緒にやりたいこと。

全ての女性が笑って楽しく生きていく世界を創ること。

かつてのわたしがそうだったように、パートナーシップに悩み、幸せになりたいのになれない!ともがく、全ての女性に氣付いてほしい。

よーこりん

幸せは今すぐなってもいいということ。
見ている現実は全て自分が創り出したものだということ。
周りのせいにしているうちは幸せになれないってこと。


女性が笑えば、男性って勝手に幸せになります。
そして、その先には世界平和があります。
奪うのではなく、与える。
自分が自分であることで、貢献になる。
お互いを尊重し合うことで、みんなが笑って幸せになる。

これは理想なんかじゃなくて、本当に思ってたらそうなると本氣で思っています。
だけどそれは、わたし一人では到底できない。
そのために、お客様とつながり、仲間とつながっていきたいです。

何かしらの形で、あなたとお会いできることを楽しみにしています。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。

よーこりんでした