ホヌアよーこりんです
こんにちは。
ヨーガ哲学って何千年とめちゃめちゃ長い期間
聖者と呼ばれるたくさんの人が関わり、いろんな流行の影響があり、時代背景の移り変わりが面白い。
ヨガ哲学でまず学ぶヨーガ・スートラと、インド版戦国物語バガヴァッド・ギーターは根本が違う。
二元論と一元論。
まず、二元論とは
見る者(プルシャ)と見られる者(プラクリティ)が存在し、見る者が見られる者を自分自身だと勘違いすることが苦しみの原因としている。
見る者は映画を観るお客さんで、見られる者は映画の中の登場人物。
わたしたちって、映画に感情移入しすぎて一緒に泣いたり笑ったりしますよね。
リアルな人生の中でも、純粋な意識であるプルシャが、物質世界のプラクリティを自分だと勘違いして右往左往しているイメージです。
プルシャもプラクリティも個人個人でそれぞれ個別に存在していて、全くの別存在という思想です。
そして、一元論とは
宇宙の根源(ブラフマン)と個人の本質(アートマン)は同一であるという梵我一如の思想。
この考えで言うと、映画を観るお客さんも映画の中の登場人物も、また映画館そのものもブラフマンであり
全ての根源だから、ブラフマンの一人芝居というイメージ。
その考えでいくと、嫌なアイツも自分と同じく自分自身だと思えばちょっと笑えてきませんか?
いや、キモいでしょうか?
そんなこと言わずに、ここは面白がっときましょう。
わたしはヒーリング出身のせいなのか?一元論派です。
だからといってヨーガスートラの内容に違和感がなかったのは、
“見るもの”と”見られるもの”が実は同一だって勝手に解釈してたんやと氣付いたんです。
多分どこにもそんなことは書いてないんですけど
インド思想の長い歴史の中で、結局そういう解釈にどうも落ち着いたようです。
その証拠に、もともと一元論だった思想が二元論主流になり、
結局ヴェーダーンタ(聖典の最終章)では一元論に戻っています。
これは余談なんですが、わたしは仏教の無我って考えにも共感できるんです。
無我とは、自分の本質、魂さえも存在しない、という思想です。
すべては空というアレです。
仏教とヨーガはルーツが同じなので、めっちゃ似てるところがあったり
かといって同じ言葉でも違う意味になってたりと面白いです。
また面白いお話があれば書きますね。
それでは、このあともステキな時間をお過ごしください。
よーこりんでした。